映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』現実か妄想か【あらすじ感想】
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の世界に行ってきました。
2014年10月11日公開
監督・共同脚本・製作:トッド・フィリップス
2019年に公開され世界興行収入1,500億円を記録した『ジョーカー』。
その続編となる本作はジョーカーとなったアーサー・フレック(演:ホアキン・フェニックス)のその後が描かれ、賛否の大きく分かれた作品です。
自分も予想が大きく覆された一人でした。
大衆は無意識のうちジョーカーに何を求めているのか。
フォリ・ア・ドゥ=二人狂い。
謎の女性リー・クインゼル(演:レディー・ガガ)とジョーカー、そしてアーサーとジョーカー。
狂気に満ちたショーは一人の男の中で始まっていました。
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予想が覆されたと書いたけれど、それも一回ではなく。
その背後に目を向けていくと作品の深みにはまっていきます。
アメリカン・コミックスのヒーロー作品の悪役の中でもでも大人気なジョーカー。
映画『ジョーカー』は社会に大きな影響を及ぼし、実際に彼の真似をする人が現れるほど。
作中でもゴッサム・シティの多くの市民が、逮捕されたジョーカーの復活を心待ちにしていました。
ですがそこにジョーカーの本当の姿を見ている人は、どれだけいたでしょう。
本作はこれまでにないストーリーで、本当の彼が浮き彫りになっていきます。
アーサーが見つけた希望と、そこからの崩壊が描かれていました。
『ジョーカー』のあらすじ
ゴッサム・シティのスラム街で細々と大道芸人の仕事をしながら、寝たきりの母ペニー・フレック(演:フランセス・コンロイ)と暮らすアーサー。
コメディアンになる夢を抱くも現実は残酷なものでした。
元から精神的な問題を抱えている彼を追い込むようにして起こる悲惨な出来事の数々。
アーサーの精神は疲弊し荒みきり、やがてジョーカーの誕生へと繋がっていきます。
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ピエロの姿で初めて人を殺したアーサー。
歯止めの効かなくなった彼の衝動的な犯行でした。
彼の殺した人物はゴッサム・シティの億万長者トーマス・ウェイン(演:ブレット・カレン)の会社で働く社員たち。
この騒動からアーサーの怒りはゴッサム・シティ中を巻き込む驚異的な広がりをみせていくことになります。
その後も彼の犯行は続き、ついにはテレビの生放送中に有名なコメディアンを射殺。
アーサーはその後逮捕され、暴動の起こる中をパトカーで運ばれていきました。
ですがそこにトラックが突っ込みパトカーは横転。
気を失ったアーサーを車内から運び出し、パトカーの上に横たわらせたのはピエロの面を被った市民です。
暴動に加わっていた貧困層の人々はパトカーを囲い、目覚めたアーサーに歓喜。
ジョーカーを讃えるピエロたちの中、彼は笑顔を作るように口元の血を伸ばし、一人愉快そうに踊っていました。
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ですがその後に場面は変わり、精神病院の一室へ。
そこには「ジョークを思いついた。」と、頭に暴動の起きた街に佇む少年を浮かべながら、ひとしきり笑い続けるアーサーの姿がありました。
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コメディアンになることを夢見ていたアーサー。
「自分の人生をずっと悲劇と思っていたが実は喜劇だった。」
アーサーのセリフですが、これはチャーリー・チャップリンの有名な言葉「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」のオマージュです。
どの視点からアーサーとジョーカーの物語を見るか。
不幸な人生の中でジョーカーになったアーサーの悲劇の物語か
それとも不幸な現実から自分を守るために妄想の中に逃げるしかなかったアーサーの悲劇か。
はたまた妄想の中でジョーカーとして祭り上げられ、踊り笑うピエロとなった男の喜劇と見るのか。
映画の中でよく笑っているアーサー。
突然笑い出してしまう発作的な笑いから、作り笑い、そして本当の笑いと。
明確な答えのない映画ですが、本当の笑いに重要なヒントが隠されていると思えてならない一作目でした。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のあらすじ
前作から2年後、逮捕されたアーサーはアーカム州立病院に収容されていました。
ある日、アーサーは別の棟で行われていた音楽療法のクラスに参加します。
そこで出会った女性のリー。
彼女はジョーカーの大ファンでした。
リーのジョーカーに対する熱心さや、生い立ちなどに自身と同じものを感じたアーサーは彼女に恋をしていき…二人のショーが始まります。
リーとアーサーのフォリ・ア・ドゥ
「フォリ・ア・ドゥ」は二人または複数人の間で妄想が共有されたり
伝染していくことを意味している言葉です。共依存の状態のこと。
ですが本作では妄想に留まらずそれを狂気として表現されていました。
リーとアーサーの間で共有される狂気や、二人の中に潜む狂気でもあると。妄想の中に潜む凶暴さや危険性を感じました。
一作目でアーサーの妄想が発覚したことや
タイトルに「フォリ・ア・ドゥ」がつけられることによって強まる彼の精神疾患からくる妄想疑惑。
いったいどこからどこまでがと。けど明確な答えが提示されていないため、様々な答えが生まれることになります。
どこまでが現実でどこからが妄想なのか。
今作は一緒に妄想を膨らませていくリーが加わったことで
音楽によって語られる彼らのストーリーが混ざっていきます。
流れる音楽はアーサーの頭の中にある曲であり、それらの歌は撮影時に生録音されていたとのこと。
キャラクターに合わせて歌い方の調整がされながらも、圧巻のパフォーマンスでした。
一作目でもアーサーなのかジョーカーなのかが、流れる音楽から感じ取れるようになっています。
至る所にこうしたヒントが隠されているシリーズです。
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また感情を表現するのが苦手なアーサー。
そんな彼に代わってアーサーの心の代弁をしていたのが挿入歌でした。
映画内のファンタジーの部分に登場するアーサーとリーの歌うシーン。
ここには彼の語られない本心が現れており、前作にはない希望を宿しています。
前作に描かれていたものがアーサーの全てではなかったのだと。リーと出会い変わっていくアーサー。
彼女が現れたことでアーサーの心の拠り所ができたのです。
ですがそのファンタジーが輝いていたり感動するものであればあるほどに
アーカム州立病院や法廷にいるアーサーの姿が小さくなって見えてくるのを味わうことになります。
そしてファンタジーの変幻自在さ。
アーサーの新しい心の描写に救いを感じるも、本作はアーサーが救われる物語ではなく。
続編が出てまで徹底的に痛めつけられるピエロが描かれていました。
『ジョーカー』に終止符を打つため作られた続編
どうしてアーサーはここまでやられないといけないのか。彼こそが犠牲者なのではと思っていた一作目でした。
ですが続編が出たのは「フォリ・ア・ドゥ」を終わらせるため。
ジョーカーは物語の中だけでなく映画の鑑賞者、作品のファンがいる現実社会にも大きな影響を生んだ作品です。
それは良いことだけではありませんでした。
そこに終止符を打つため、アーサーの本当の姿を見せようと制作されたのが本作なのです。
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賛否の別れた作品とのことで、一作目のようなジョーカーのストーリーを期待して鑑賞した人が多いのではないかと。自分はその一人です。
けど違っていたので、観た後になんてリアクションしたらいいか最初は戸惑いました。
続編がなければ、一作目のジョーカーが残り続けたと。最初はそれが上書きされたように感じてしまったりも。
けどそれこそが続編の出た理由なのだとわかっていくうちに、これまでにないダークヒーローのストーリーを見た気持ちになりました。
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余談ですが、少し前にフリードリヒ・ニーチェの思想「永劫回帰」のことを読んで。
何度繰り返しても良いと思える人生を送ろうという、最終的には人生を肯定するニーチェの考えです。
映画を観たら、やっぱりニーチェの内容がチラチラして。アーサーの人生は繰り返したいと思えるものなのかなと考えました。
『ジョーカー』のシリーズは、よく見ると似ていることを繰り返している疑惑が浮上します。
アーサーの人生そのものを繰り返しても良いと肯定できるのか。
今は肯定できないですが「否定するなんてムリ!」と歌うレディー・ガガの声に、そうしたモヤモヤが払われた時がありました。
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賛否の大きく別れた作品ですが、それは観る人たちのジョーカーへの愛や期待からくるもの。
ですが監督たちのジョーカーに対する愛はとても大きなものであり
だからこそこのストーリーで崩壊のエンディングを迎えなければならなかったと。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を観てから前作に戻っても、前に観た時には戻れません。
ジョーカー像が塗り替えられた映画でした。
配信一覧
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